インタビュー
山田 那美
思考を描き、伝え、つながる
山田 那美(絵で言語化する人)
- 編集・インタビュー:笹田理恵
- 写真:加藤美岬
山田 那美(絵で言語化する人)
兵庫県神戸市生まれ。美大卒業後、関西で日本画をベースとした抽象画で作家活動を行う。その後、ものづくりの仕事に就くことを決意し、岐阜県土岐市へ移住。現在は、食器を作る窯元で働きながら、一度は離れた美術の活動も再開し、「時間の可視化」や「モールス信号」をテーマとした作品で個展を開いている。コロナ禍では自主的に「多治見テイクアウトマップ」を作るなど、多治見の人や店との関わりも深い。
Prologue
ボールペンで絵を描く人。セーターを一目ずつ編み上げるように描く。ともみさんの印象は緻密な描写の絵、佇まいから感じられる豊かな感性、じっくり思考と照らし合わせるように話す誠実さと優しさ。
多治見のCAFE NEU!で見掛け、メタル好き・窯元勤務という噂は得ていたが、岐阜出身ではなく陶芸家を志しているわけでもないらしい。外から移り住む人が増えた多治見では、「ここで暮らすまでの経緯は知らないまま、会えば話をする間柄」は珍しい関係性ではなかった。
改めて話をしたら、関西で作家活動をしていたこと。もう二度と絵は描かないと決めて、岐阜に引っ越したこと。「ものづくりの仕事をするなら量産」という着眼点を持っていたこと。そして、感覚ではなく言語化するように絵を描くことを知った。何かに向かい、諦め、再開する。道筋を拓いた先にある、生活のかたちに触れさせてもらいました。
自分の表現がない、というコンプレックスと
地元は関西なんですよね。
27歳まで神戸に住んでいました。京都精華大で日本画を専攻していて、実家から大学まで片道2時間かけて通っていましたね。
神戸から京都は時間かかりますね……!
毎日「三都物語」とか言って。笑
元々、絵が好きだったんですか?
そうですね。美術と体育ぐらいしか成績が良くなかったので、両親も「この子は美術なんやろうな」と思っていたみたい。幼い頃もペンを持ったら黙る、裏が白い広告をやたらと欲しがる子でした。広告の紙にもこだわりがあって、ツルツルは描きづらいから嫌。上質紙の質感じゃないと描かない。笑
絵画教室やマンガがきっかけじゃないんですね。
『りぼん』や『なかよし』は付録目当てで買ってもらっていて。ちゃんとマンガを読み始めたんは小学校3、4年……それでも月刊誌は話が途中からだから読む気がしなかった。字を覚えるのもちょっと遅かったので読めない漢字が書いてあるし。いまでこそ結構マンガを読みますけど、小さい頃は絵本もふくめ物語をほとんど読まなかった。2つ上のお兄ちゃんと一緒に、ひたすら写実的な絵が描いてあるだけの本ばかり見ていた。「あ、ケーキだ、パンだ」と言っていたのが楽しかった。
成長しても描く楽しさは消えず?
消えず、というより描くのが「普通」みたいな。描くのは好きだけど、こだわりがなくて描きたいものがないから、ずっと物を見て描いていた。大学受験ぐらいまで自分が表現したいことより忠実に描くことにこだわっていた時期はあった気がしますね。
美大入学後は、絵を描くのが中心ですか。
三宮のTSUTAYAでアルバイトもしていました。面接で音楽や映画が好きだと伝えたのに、なぜかゲームソフト・ハードの販売、買取りの所属になって。笑 でも4年ぐらい勤めました。安くレンタルできたから音楽や映画をめっちゃ借りて。
メタル好きの噂は聞いています! 音楽好きはどこから?
音楽はずっと好きですね。月並みですけど父親の影響で。本人はジャズが好きと言っていたけど、父はバリバリのハードロック世代なので知識がすごくあった。当時CMでディープ・パープルやジミ・ヘンドリックスが使われていたので、「これ、かっこいい」と言ったら父親が教えてくれて。小学校の前半はクルマの中でビートルズのカセットを聞いて、小学校の中・高学年から徐々に初期ハードロックに興味があると気付いて。あ、でも小学校後半から中学校まではB’zが好きで……というより他に好きなものが分からなくて安パイというか。ずっと聞いていたら父親が「B’zが好きならレッド・ツェッペリンやハードロックも好きなんじゃないか」と。それで中学の時に自分でディープ・パープルのベスト盤を買って。
中学ぐらいから自分でCDを掘ったり買ったり。
そうですね。高校でハードロックにくわしい先輩がいて拍車がかかり『BURRN!』というハードロック・メタルの音楽雑誌も買って。バス代をケチってタワレコでCD買う、みたいなことを高校の時はずっとやっていました。
その頃に好きな音楽がいまも好きで。
大学入る頃には、音がすごく重くなってきて。笑 VAN HALENを聴いていた時に「速いのもすてき!」と思って、ツーバスとかも聴けるようになり大学1年でデスメタルまでいった。笑 ブルータル・デスメタルやブラックメタルとか、もっと重いガチの悪魔信仰みたいな音楽までかっこいいと思えるように。バイト先に音楽がくわしい人が多かったからオルタナ系も聴くようになりましたね。
美術の高校や大学に入ってからの手応えはどうでしたか。
高校で自分のできなさ……「天才っているんだな」みたいな感覚はありました。
それは自分のレベルが分かるということですか?
どの辺に自分がいるかは分かんないけど、明らかに自分より才能のある人かが分かる。具体的な例だと、私が10枚描いてようやくできたことを1枚でやれる子がいる。デッサン画がめっちゃうまいという評価じゃないけど、すごく味のある落書きをする子もいたり。自分にはできないことをやれる人が周りにたくさんいた。
そこで「私なんて」と卑屈にならず「すごい人がいるな」という心境だったんですね。
確かにそうですね。それでやめなかったです。でも、大学に入って写実に走るのはやめました。それまでデッサン至上主義っぽさがあったけれど、自分の作品を描くとなった時に「自分には作風がない」と思って。大学でも人とすごく比べていたと思います。当時は負けたくないという気持ちが強かった。評価されたいと思っていた。大学を出てフリーターだった頃は、すごく自分を過信していたと思いますね。
「評価されたい」という気持ちは、創作の原動力になり続けるものですか。
あぁ……どうだろう。このやり方だと自分が思っているような評価のされ方はしないだろうし、そこまでパワフルに描き続けるって無理だな……みたいな気持ちになっていった。自分の表現がないのがコンプレックスだったので、ずば抜けた個性もない中でたくさん発表ができないとなると評価されなくても普通かな、と。前は日本画で抽象を描いていたので、手癖で描くと同じような絵ができるし、自分の良いと思う構図は決まってくる。たくさん描けば描くほど絵が似てくる。それで頭打ちだなって。
楽しく生きるための努力っているんだなって
作家としての活動が頭打ちだと感じてから新しい進路が視野に入ってきた。
もう絵はいいかなと。絵を描かないならフリーターしててもな~と思って。どうせ働くならものづくり。人より器用だと思っていたし黙々と作業するのも好きだったから、ものづくり系に就職してお金を得た方がいい。それで量産の仕事がいいなと。
なぜ量産だったんですか?
なんて言うんだろう……集中力はそこそこあるけれど伝統工芸をやるほどはない。だから、他のことを考えながらでもある程度できる量産がいいかなって。
その発想から「量産」という選択肢に絞れるのがすごい。
確かにものづくりを志望する人はいるけど、量産がいい人は少ないかもしれないですよね。なんですかね~。笑
実際その仕事が続いているし、自分をよく分かっているからできた選択かなと。
人にアドバイスされたことが自分に当てはまらないと気付いたことがあって。「いつまでにこうした方がいいよ」とか「〇歳なら、そろそろ決めなきゃ」みたいに言われても「そうかな?」と思うことが何回かあった。個展を見に来てくれた人に感想の延長で言われることもあるし。
作品を発表すると、いろいろな意見も頂きますよね。
ありますね。そういう意味でも個展はいい経験だったと思います。あと、発表したからといってたくさん見てもらえるわけじゃないというのも分かった。でも、発表しないとなお見てもらえない。
当時はSNSで発信する時代でもないから、目に触れてもらうことが容易ではない。
周りに「頑張っていれば誰かが拾ってくれるだろう」みたいなマインドの人がいたんです。発表してなかったら見てもらえるわけがないのに「いや、まだそういう段階じゃない」と言っていた人もいて。自分にかけられる言葉、同じ立場だけど発表してない人……どちらの言葉も聞いていて「これは他人の言うことだ」と思った。
同調できることばかりじゃない。
これは最近分かったんですけど、人の意向を組むのは大事だけど、人の機嫌を伺いながら絵を描き始めると途端に魅力がなくなる。自分自身の魅力もなくなる。だから、もう聞かねえ!みたいな。笑
自分の良いと思うものを、忠実にやるのが一番。
描いて完成してみないと全体像はどうやっても見えないので、途中で何か言われてもとりあえず自分の思った方向で描いてみる。それで完成したものを見せる。そしたら自分の言いたいことを100%盛り込んだものを見た上で、人から言葉がもらえると思いました。
5年の作家活動を経て始めた量産の仕事が、なぜ食器だったんですか?
一人暮らしを始める前後で器が好きだと気付いて。リニューアル前の『ku:nel』(2002年創刊の雑誌、16年にリニューアル)に大学に入ってすぐ出合って、生活にまつわる雑貨とかが好きなんだと。
陶芸に興味はなかった?
陶芸やろうとは思わないの?とは言われます。でも、陶芸でやりたいことは特になくて。やったら面白いと思うけど、面白いだけじゃダメじゃないですか。物を作るなら皿や湯呑みとかある程度のビジョンが必要なので。作りたい物がないしな~。
それは窯元で働いてからも変わらず?
私、作る作業が好きなんですよね。人が作った物は好きですけど、自分の作った物はそんなに好きじゃないです。
作る過程が好きなんですね。
やっている時が好き。絵でも自分らしくないものができた時の方がうれしいです。個展でボールペンの作品を出すことが多いので、こういうのが好きなのかと聞かれるんですけど、「いや、別にできるからやってる」みたいなところがある。自分がやれることと好みは必ずしも一致しないと思っています。でも、自分の特性をちゃんと生かしたものじゃないと作家としての息は続かない。自分から出ているものじゃないと描き続けられないので、だから理想や好みを追うんじゃなくて、もっと内側に。自分は何が得意で、何なら続けられるのかを考えたら、集めている物と作品が剥離してくる。
「好きをしごとに」みたいな考えとは違う。
どちらかと言うとやれることをやっている。でも、やれることだから気持ち的に苦じゃない。自分が良いと思うままに描いて、作品として結果が出る。別に自分の好みではないけどクオリティーはそこそこあるだろうし……良いと思っているけれど好きではない。
「好き」を道しるべにしないんですね。
作品の制作に関しては完全にそうですね。どちらかというと思考と経験を反映させるのが制作。イラストレーションの依頼は別で、自分の培ってきた技術を人のために使う感覚です。
同じ絵を描くという行為でも違う意識で取り組んでいる。
そうですね、ちょっと整理できてないですけど……ボールペンで描く作品は文章を書くのにすごく近い感じで、水彩で描くイラストレーションは感覚。色や模様も見たものを参考にして自由ですけど、ボールペンやカセットテープを使う現代アート寄りの作品は、100%自分の思考や知識から得たものを文章に起こして、それを視覚化するもの。
それは関西で作家として描いていた作品とは違うものですか?
水彩の方が昔やっていたことに近いですね。でも、自分は感覚より理屈の人だと分かった。昔の作風では続かないと思ったので。
勝手なイメージで、感覚が制作に紐づいているのかと思っていました。
表現至上主義というか「感じたまま描くのがいい」みたいな風潮はあると思うんです。理屈をこねるのは絵が弱いからじゃないか、という考えを持っていた時期もあって。それが自分の首を絞めていたんですけど、結果的には自分が理屈の人だと分かってなかった。美術系は感覚の人、みたいな思い込みがあったし、感覚で描けないとダメだとずっと思っていた。でも一度絵をやめてみたら、描きたいものは全然ないのに考えはたくさん浮かんでくる。だから、そこに重点を置いて描いた方が私は続くんじゃないかと思って。
絵を描くのをやめてから気付いたことなんですね。
そうですね。岐阜に来た時はもう二度と描かないと思っていたので。丸二年ぐらい全く描いてなかった。
道具も持ってこなかった?
一応、持ってきた。……なぜ持ってきたのか分かんないですけど、でも絵はしんどいからいいやって。
窯元ではどんな仕事をしているんですか?
絵付けをしたいと思って岐阜に来たけれど、いまは釉薬が主流なので無くて、一社目は企画をしていました。でも毎日体を動かして働く方がいいなと思って、2年ほどでいまの窯元に移りました。そこからは釉薬をつけたり撥水剤をまく仕事をしてますね。
じゃあ、器の仕事は問題なく。
あ、そうですね。自分で望んだことだし。
何が向いているのか、という自己理解ができていたからこそ。
最近読んだもので、仕事は職種で選ぶんじゃなくて抽象的な概念で選んだ方がいいと。自分は何が好きかと聞かれた時に、絵を描く、サッカーが好き、とかじゃなく、もっと動詞的な「走っているのが好き」とか。私だったら無心で同じ作業を反復するのが好き、環境がどんどん変わっていくのが好きとか。良い意味で解像度を粗くしていくことが職選びには大事なのかなって。美術が好きだから画家かマンガ家かみたいなのは、やっぱり良くない。
ある種の先入観によったカテゴライズですよね。
学生の時は絵が上手い子はマンガ家みたいな文化があったし、イラストレーターか画家、あとはデザイナー。具体的なようでざっくりとした職業しか頭になかった。自分の特性を知るのはすごく大事。楽しく生きたいと思っている人は、ある程度自分と向き合った方がいいのかな。やっぱり楽しく生きる努力、いるんだなって思う。
人と対等にコミュニケーションを取るために描く
岐阜での人間関係はどんな風に広げていったんですか?
CAFE NEU!でたろうくん(土器作家の田中太郎さん)に話しかけられて、一緒の大学だと分かった。多治見に顔見知りが増えたきっかけですね。そこからは芋づる式に。笑 でも、その時が絵を描き始めた頃だったのでタイミング的に良かった。ただ知り合っただけなら、ここまで広がらなかったかもしれない。たろうくんに「こんなのを描いていて」と見せたんですよね。
やめたはずなのに描きたい欲求が自然と湧いてきたんですね。
そこが不思議というか……絵を描きたいというより、文章より絵の方が見てもらえるかもと。当然ですけど、無名な自分がいきなり文章を書いて見せるより、ずっとやってきた絵の方が説得力あるはず、というモチベーションですね。あと、東濃は縁もゆかりもない地だったので、友だちってどうやって作っていたっけ?と思って。人と深く知り合う時に自分はどうしていたかと考えたら、絵でコミュニケーションを取っていたところがあるなと。特技を見せられるのもあるし、人と対等にコミュニケーションを取ろうと思うと、絵を描いてやっと普通の人と並べるぐらいの認識。自分の中では、それでようやくコミュニケーションが取れる。
人と関わるためのツールだった。
ハブじゃないですけど、今までも大きなきっかけでした。
絵は、自分に欠かせないものですか?
そうですね……欠かせないというより、人より劣っているところを絵で埋めているような感覚があって。
何が劣っていると感じていたんですかね。
劣っていると言うと、あまり良くないですかね。……人と普通に仲良くしたいと思っているけど、若干向いている方向が違う。でも、絵を描くとみんなそれなりにこっちを向いてくれる。そういう意識はありました。日々たくさん考えていることを表現する時に、一番勉強をして、一番長くやってきた絵が、表現の媒体として最も適していると思ったので描き始めた。
2年間の描かない時期、人とのつながりは広がらなかったですか。
はい。本当に知らない土地に来たんだと、そこで一番実感して。寂しさは結構あった気がします。
関西に帰りたいという発想より、ここでどうやったら人と関われるのかを考えた。
関西に帰りたいと思った時期もあったんですけど、仕事を基準にしてこの土地を選んだので。関西のものづくりは手作業より機械工場が多い。やっぱり自分の生活を支えるものは自分の好きなこと。毎日やるならせめて向いている仕事の方がいいよなって。
岐阜で絵を描き始めたことで人と関わりが増えたり、足りない部分が補われたんですね。
そうですね。いま描いているものが日頃考えていることに直結する作品なので、作品を解説することが自分の考えを話すことになっている。普通に話すより、より深く話せている感じがします。
作家として評価されたい、とは違う原動力ですよね。
うん、そうなんですよね。そこが自分でも変な感じです。評価されたいかと言われるとそうでもないけど、でも手から出しちゃいたい。いまは物理的に出さなくてもSNSで見てもらう欲求はインスタントに満たされるから、それでいいかと思えているところは多少あると思います。
いろんな人に広く見てもらいたい、という思いもまだありますか?
そうですね。爆発的に広まらなくてもいいけど、フィットする人が私の考えや作品に触れることで何かの思考、アートに対する見方が変わるとか。美術が分からないと感じる人に対して「これなら分かってもらえますかね」みたいな気持ちもちょっとある。
たしかに、ともみさんの作品のキャプションを読むと見る人に寄り添っている印象を受けます。
昔から自分の言葉が誤解されることがすごく嫌だったんですよね。誤解されないようにするにはどういう言葉で伝えるのがいいんだろうと、ずっと考えていた。抽象画を描いていた時は表現主義的なところがあったので「見て感じてもらえれば」みたいに言ってたんですけど、私の絵がすごく意味があるように見えるらしく説明を求められることが多い。「じゃあ、全部説明したろうやん!」って。美術というものが分からない人は多い反面、分かりたいと思っている人も結構いると思うんですよね。
美術を楽しみたいのに分からないと蓋をする人は多い気がします。
コンセプチュアルアートは文脈ありき、という面があるので文脈が分からないと理解しにくい。じゃあ、自分の文脈なら全部書ける。「こういう思考で描いている」というのをなるべく隠さず提示している私の展示が、美術を分かりたいと思っている人の入り口になればという気持ちです。私のがっつり説明している絵を見て、他の展示にも興味持ってくれたらいいなと思っています。
自分の考えを言葉にする人もいれば、音楽にしたり、店や食にしたり……表現が多々ある中での絵やアートだと思うと分からないものじゃなくなる気がします。ソースは意外と近いような。
ああ、いい言葉です。
発露や表現は違っても、内側にある考えの源泉は近いと感じられれば不可解なものじゃなくなる気がして。
すごくうれしい。私は、いわゆるかわいい置物とかを作っているわけじゃないですけど、作品から考えや思考を持って帰ってもらえたらいい。
それは鑑賞する側としてもうれしいです。創作物を目の前にすると、作者への敬意や畏怖で距離を感じてしまうこともあるので。
関西にいた時に知った、世界的に活躍されている榎忠さん。垂水にお住まいで、どんなに遠くへ行っても必ず泊まらずに帰ってくる地元が好きな方で、定年まで鉄鋼所に勤める傍ら現代アートをやられていた作家さんです。機械の部品を積み上げたビル街や薬莢を3トンぐらい並べている作品があるんですけど、かなり前から展示作品の撮影がOKだったんですよ。
SNSが広がるまで撮影NGの美術作品が多いイメージでした。
そうですよね。以前からそういうスタンスでやっていらして、写真を撮っていいと言われただけで、すごく距離が近くなった気持ちになった。私も何回かお会いしたことがあって、部品を積み上げて作るビル群は接着してないので時にバラバラになっちゃうけれど、「いいよ、また積むから」と。作品自体はかっこいい現代アートなのに、こっちに近づいてくれるスタンスがすごくいい。定年まで工場で働かれていたのもいい。こういう作家さんもいらっしゃるんだと思って、榎忠さんみたいになりたいとは思っていましたね。
今後も、展示を続けてきたいという気持ちはありますか?
そうですね、発表する・しないはあまり考えていないけれど、作品自体は描けるだけ、作れる限りは作りたい。作品って自分が死んでも残るものなので、後から誰かが見た時に普遍的なものであってほしいと思う。
神戸で育ち、岐阜に移り住む。先は分からないと思いますが、しばらくこの地域に住み続ける予定ですか?
とりあえず働きたいと思える場所で暮らす。働ける場所と考えたら、特に神戸に帰る理由がないな~と思って。神戸はすごく好きだし便利だけど住まなくても大丈夫。文化的なものに気軽に触れられるのは関西ですけど、働くことの方が大事だから。
自分が気に入る仕事があることが重要。
そりゃ、神戸にいま勤めている窯元が来てくれたら願ったり叶ったりですけど。笑 まあ、それはちょっとむずいので。仕事、大事ですよ。
ずっと続けたいと思える仕事に出会えたのは幸運ですね。
それは運が良かったと思う。あと、ある程度の年齢まで京都や神戸で街を楽しめたから、いまここにいられる。いざという時は楽しみ方も分かるし、のんびりする日常の良さも知っているから。
ともみさんを「絵で言語化する人」と表したんですけど、どうですか?
うれしいですね。絵だけじゃなくて表現=言語と訳されがちだし、異口同音的な響きがあるけど、だったらもう芸術のほとんどは言語だし、みんな何かしらで言語化している。私は、それをより意識してやっている人間だと思うのでうれしい。
すごく楽しかった。また、いろいろ話したいです。
聞いていただけるなら、ぜひ。私自身が言葉で思考を組み上げてから画面に落とし込む作品をやっている特性上、あるタイミングでどういう思考を自分が持っているのか整理したい。その引き出しは、たまに開けてあげないと開かなくなっちゃう。
いろいろ考えていたはずなのに不明瞭になる、みたいな。
なんかあったはずなんだよな~みたいな。なので、聞いてもらえるのはありがたいですね。
生まれ変わるなら、どんな人になりたい?
最後に質問カードを引いてもらえますか。いろんな人が書いてくれた「誰かに聞いてみたいこと」がランダムに並べてあります。
Q:生まれ変わるなら、どんな人になりたいですか?
えー、普通の人になりたいですね。
「普通」とは?
普通……なんていうんでしょう。自分がマイノリティの自覚があるんですよ。考えが平均とちょっと違う。わりとどこに行ってもちょっと中心からズレていて。メタル好きの人と話しても好きなバンドが違うんですよ。音楽でも美術でもあまり王道を行けている感じがしなくて。
自分が選ぶもの、好きだと感じるものがマイノリティ寄りなんですね。
いまはないですけど、昔は「変わっている方がすてきだ」と思っていたこともあったんですよ。みんなが知らないから好き、みたいな。でも普通を良しとする精神を持っている方がきっといいだろうと。流行っているものを流行っているなりの感じで受け取れて、人並みに合わせられる人。「こうしなきゃ」と焦って、ちゃんとそのレールに乗れる人。常識を重んじる平凡な人になりたいですね。
人生設計的なものとか。
そうです、そうです。普通でいたいです。笑
もしかしたら、いまからなろうと思えばなれるのかもしれないけれど、ともみさんにとっては「生まれ変わらないとなれない」くらいの距離感ですか?
そう思います。私はたぶん無理だなって。普通になろうとしていた時期があって、「あ、無理だ。どこかでしわ寄せがくるわ」って。才能の意味では平凡だと思うんですけど、思考はマイノリティだなって。
山田那美さんからの質問
「普通」とは、何ですか?
- 編集・インタビュー:笹田理恵
- 写真:加藤美岬
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